月面軌道

入場料を払って靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。簡素なものだが新品だ。
白衣を着た若い女性に案内されて、個室に入る。部屋は５つか６つほどあっただろうか。
室内は広く清潔だ。窓はないが、その広さと柔らかい光に包まれた雰囲気が、私をリラックスさせる。

白衣の女性に案内されて、部屋の中央にある革のソファに腰掛ける。
女性の操作で、ソファは歯科医院の椅子のようにリクライニングしていく。
「こちらをどうぞ」
女性に渡された大きめのゴーグルのようなものを顔に装着する。ビデオモニターのようなものだ。
「倍率と画面の移動はソファの肘掛けにあるダイヤルとレバーで操作できます。お飲物をサービスしますので必要なときに右のボタンでお呼びください。ごゆっくりどうぞ」
女性が部屋を出ていく気配があり、モニターに映像が映った。

月である。あかるい満月が映っている。
ダイヤルで倍率を変えてみる。月面がどんどん迫ってくる。頭の隅ではこれは作り物なのだと思っても、その迫力はリアリティをもって脳を刺激してくる。プラネタリウムという作り物にある種の感動が伴うのに近い感覚だろうか。

信じられない倍率で月面に迫っていくと、「月面軌道」が見え始める。細くはかない黒い筋が、徐々に軌道に見えてくる。そして‥‥

電車が来た。濃い影を落とした連接車。時速３０ｋｍくらいだろうか、のんびりと走っている。
細部の形は判別できないが、丸みを帯びたデザインの車輌のようだ。反対からやってきてすれ違う車輌もある。

夢中で見つづけた。手の届かない月面を、音もなくただ走るだけの電車たちを、時間の経つのも忘れ、自分の年齢や立場も忘れ、月光に包まれた電車の風景に見入った。ダイヤルやレバーを操作しながら、視覚の心地よさに、いつの間にか眠ってしまった。

数時間後、白衣の女性の笑顔に送られて、私は架空鉄道「月面軌道」社の建物を後にした。